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芳龍茶



廃坑

 この廃坑は旧幕時代の末頃まではまだ採掘されてゐて、これあるがために河原町は当時幕府直轄の天領となつてゐた。そして、上流にある城下町の藩主が参勤の途上この河を利用して下る時、天領との間に何か紛争の糸口のつくのを憚(はゞか)つて、河原町の傍を通る間は舟に幕をはり、乗組の者は傍見をして下つたと云ふ。それほどであつたから、この領内の民は他領との縁組を嫌ひ、他領から移り住む者を許さなかつたし、狩猟とか交通とかその他様々な点で非常な横暴と特権とを許されてゐたものだつた。
 銅山が廃坑となり、時代が移ると共に、他所の町村が発展するのに河原町だけは産業的に衰微し、とりのこされたが、以前の天領気分は今でもなほこの町を中心とする一廓に残つてゐた。それは近くの村々から「河原風」と呼ばれてゐた。今でこそ「無暗と気位ばかり高くて能なし」の意味であつたが、当の河原町の人々は、それがどんな意味に使はれてゐても、腹の中では漠然とした自己尊敬の念を感ずるのであつた。
# by ttkurtt | 2007-03-11 16:41

神田

 梢(こずえ)をふり仰ぐと、嫩葉(わかば)のふくらみに優しいものがチラつくようだった。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めていた。吉祥寺(きちじょうじ)の下宿へ移ってからは、人は稀(ま)れにしか訪(たず)ねて来なかった。彼は一週間も十日も殆(ほとん)ど人間と会話をする機会がなかった。外に出て、煙草を買うとき、「タバコを下さい」という。喫茶店に入って、「コーヒー」と註文(ちゅうもん)する。日に言語を発するのは、二ことか三ことであった。だが、そのかわり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまわりを渦巻いていた。
 水道道路のガード近くの叢(くさむら)に、白い小犬の死骸(しがい)がころがっていた。春さきの陽(ひ)を受けて安らかにのびのびと睡(ねむ)っているような恰好(かっこう)だった。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのように静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒(のざら)しになっている小さな死骸を、しみじみと眺(なが)めるのだった。これは、彼の記憶に灼(や)きつけられている人間の惨死図とは、まるで違う表情なのだ。

「これからさき、これからさき、あの男はどうして生きて行くのだろう」――彼は年少の友人達にそんな噂(うわさ)をされていた。それは彼が神田の出版屋の一室を立退(たちの)くことになっていて、行先がまだ決まらず、一切が宙に迷っている頃のことだった。雑誌がつぶれ、出版社が倒れ、微力な作家が葬られてゆく情勢に、みんな暗澹(あんたん)とした気分だった。一そのこと靴磨(くつみがき)になろうかしら、と、彼は雑沓(ざっとう)のなかで腰を据えて働いている靴磨の姿を注意して眺めたりした。
「こないだの晩も電車のなかで、FとNと三人で噂したのは、あなたのことです。これからさき、これからさき、どうして一たい生きて行くのでしょうか」近くフランスへ留学することに決定しているEは、彼を顧みて云った。その詠嘆的な心細い口調は、黙って聞いている彼の腸(はらわた)をよじるようであった。彼はとにかく身を置ける一つの部屋が欲しかった。
 荻窪(おぎくぼ)の知人の世話で借れる約束になっていた部屋を、ある日、彼が確かめに行くと、話は全く喰(く)いちがっていた。茫然(ぼうぜん)として夕ぐれの路(みち)を歩いていると、ふと、その知人と出逢(であ)った。その足で、彼は一緒に吉祥寺の方の別の心あたりを探(さが)してもらった。そこの部屋を借りることに決めたのは、その晩だった。
 騒々しい神田の一角から、吉祥寺の下宿の二階に移ると、彼は久し振りに自分の書斎へ戻ったような気持がした。静かだった。二階の窓からは竹藪(たけやぶ)や木立や家屋が、ゆったりと空間を占めて展望された。ぼんやり机の前に坐っていると、彼はそこが妻と死別した家のつづきのような気持さえした。五日市(いつかいち)街道を歩けば、樹木がしきりに彼の眼についた。楢(なら)、欅(けやき)、木蘭(もくらん)、……あ、これだったのかしら、久しく恋していたものに、めぐりあったように心がふくらむ。……だが、微力な作家の暗澹たる予想は、ここへ移っても少しも変ってはいなかった。二年前、彼が広島の土地を売って得た金が、まだほんの少し手許(てもと)に残っていた。それはこのさき三、四ヵ月生きてゆける計算だった。彼はこの頃また、あの「怪物」の比喩(ひゆ)を頻(しき)りに想い出すのだった。
 非力な戦災者を絶えず窮死に追いつめ、何もかも奪いとってしまおうとする怪物にむかって、彼は広島の焼跡の地所を叩(たた)きつけて逃げたつもりだった。これだけ怪物の口へ与えておけば、あと一年位は生きのびることができる。彼は地所を売って得た金を手にして、その頃、昂然(こうぜん)とこう考えた。すると、怪物はふと、おもむろに追求の手を変えたのだ。彼の原稿が少しずつ売れたり、原子爆弾の体験を書いた作品が、一部の人に認められて、単行本になったりした。彼はどうやら二年間無事に生きのびることができた。だが、怪物は決して追求の手をゆるめたのではなかった。再びその貌(かお)が間近に現れたとき、彼はもう相手に叩き与える何ものも無く、今は逃亡手段も殆ど見出(みいだ)せない破滅に陥っていた。
# by ttkurtt | 2007-01-03 11:23

人間豈

 造化(ネーチユア)は人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯(がへん)ぜざるなり。造化の権(ちから)は大なり、然れども人間の自由も亦た大なり。人間豈に造化に帰合するのみを以て満足することを得べけんや。然れども造化も亦た宇宙の精神の一発表なり、神の形の象顕なり、その中に至大至粋の美を籠(こ)むることあるは疑ふべからざる事実なり、之に対して人間の心が自からに畏敬の念を発し、自からに精神的の経験を生ずるは、豈不当なることならんや、此塲合に於て、吾人と雖(いへども)、聊(いさゝ)か万有的趣味を持たざるにあらず。
 人間果して生命を持てる者なりや、生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり、謂ふ所の生命の泉源なるものは、果して吾人々類の享有する者なりや。この疑問は人の常に思ひ至るところにして、而して人の常に軽んずる所なり、五十年の事を経綸するは、到底五十年の事を経綸せざるに若(し)かざるなり、明日あるを知らずして今日の事を計るは、到底真に今日の事を計るものにあらざるなり、五十年の人生の為に五十年の計を為すは、如何(いか)に其計の大に、密に、妙に、精にあるとも、到底其計なきに若かざるなり。二十五年を労作に費し、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き方寸なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり、然れども実際世界は決して斯の如き夢想を容るゝの余地を備へず。我が心われに告ぐるに、五十年の人生の外はすべて夢なりといふを以てせば、我は寧(むし)ろ勤労を廃し、事業を廃し、逸楽晏眠を以て残生を送るべきのみ。
# by ttkurtt | 2006-08-12 19:45

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しました。

あんまりよくわかりませんでした。
# by ttkurtt | 2006-04-16 17:54

串談

 夏の日が暮れて、燈火(あかり)は三人の顔に映った。三吉は姉の容子(ようす)を眺めながら、こう切出した。
「達雄さんも、名古屋の方だそうですネ……」
「そうだそうな」
 と答えるお種の顔には憂愁(うれい)の色が有った。それを彼女は苦笑(にがわらい)で紛(まぎら)わそうともしていた。
「何処(どこ)も彼処(かしこ)も後家さんばかりに成っちゃった」
「三吉――俺は未だ後家の積りじゃ無いぞい」と姉は口を尖(とが)らした。
「積りでなくたって、実際そうじゃ有りませんか」と弟は戯れるように。
「馬鹿こけ――」
 お種は両手を膝(ひざ)の上に置いて、弟の方を睨(にら)む真似(まね)した。三吉も嘆息して、
「姉さん、旦那のことは最早思い切るが宜(よ)う御座んすよ。だって、あんまりヤリカタが洒落(しゃれ)過ぎてるじゃ有りませんか。私も森彦さんから聞きましたがネ、そんな人に尽したところで、無駄です――後家さんが可い、後家さんが可い」
「これ、お前さんのように……そう、後家、後家と言って貰うまいぞや」
「馬鹿々々しい……亭主に好さそうな人が有ったら、私がまた姉さんに世話して進(あ)げる」
 不幸な姉を憐(あわれ)む心から、三吉はこんな串談(じょうだん)を言出した。お種はもうブルブル身(からだ)を震わせた。
「三吉、見よや、豊世が呆(あき)れたような顔をしてることを――お前さんがそんな悪(にく)い口を利(き)くもんだからサ――国に居る頃から、お前さん、お仙なぞが三吉叔父さん、三吉叔父さんと言って、よく噂(うわさ)をするもんだから、どんなにか好い叔父さんだろうと思って豊世も逢いに来たところだ……」と言って、お種は嫁の方を見て、「ナア、豊世――こんな叔父さんなら要(い)らんわい」
 豊世は笑わずにいられなかった。
「しかし、串談はとにかく」と三吉は姉の方を見て、「後家さんというものはそんなにイケナイものでしょうか」
「後家に成って、何の好い事があらず」
 と姉は力を入れた。
「そりゃ、若くて後家さんに成るほど困ることは無いかも知れません。しかし、年をとってからの後家さんはどうです。重荷を卸して、安心して世を送られるようなものじゃ有りますまいかネ……人にもよるかも知れませんが、こう私は、姉さん位の年頃に成って、子のことを考えて行かれる後家さんが一番好かろうと思うんですが……」
「まあ、女に成ってみよや」
 と言って、姉は取合わなかった。
 その晩、お種は弟の宿に泊めて貰って、久し振で一緒に話す積りであった。やがて町の響も沈まって聞える頃、お種は嫁に向って、
「豊世、お前はもう帰らッせ」
「今夜は私も母親さんの側に泊めて頂きとう御座んすわ」と豊世が言った。「何だか御話が面白そうですから……」
 姑の許を得て、豊世は自分の宿まで一旦断りに行って、それから復た引返して来た。三人同じ蚊帳の内に横に成ってからも、姉弟は話し続けた。お種は枕許(まくらもと)へ煙草盆を引寄せて、一服やったが、自分で抑(おさ)えることの出来ないほど興奮して来た。伊東に居た頃、よく彼女の瞑(つぶ)った眼には一つの点が顕(あら)われて、それがグルグル廻るうちに、次第に早くなったり、大きく成ったりして見えた。お種は寝ながらそれを手真似でやって見せた。終(しまい)には自分の身(からだ)までその中へ巻込まれて行くような、可恐(おそろ)しい焦々(いらいら)した震え声と力とを出して形容した。
「ア――姉さんは未だ真実(ほんと)に癒(なお)っていないんだナ」
 と三吉は腹(おなか)の中で思った。それを側で聞くと、豊世も眠られなかった。
# by ttkurtt | 2006-03-04 13:27


芳龍茶

by ttkurtt