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芳龍茶



何卒(どうか)

 母に言付けられて、お俊は次の間に置いてある桐(きり)の机の方へ行った。実の使用(つか)っていた机だ。その抽匣(ひきだし)の中から、最近に来た父の手紙を取出した。
 お倉は鼠色の封筒に入った獄中の消息をお種に見せて、声を低くした。「ここにも御座います通り、橋本さんへも宜敷(よろしく)申すようにッて」
「実は何事(なんに)も外部(そと)のことを知らずにいるんでしょうよ」とお種は嘆息した。
 暫時(しばらく)女同志は無言でいた。お倉は聞いて貰う積りで、
「なにしろ、貴方、長い間の留守ですから、私も途方に暮れて了いましたよ……こんな町中に住まわないたって、もっと御屋賃の御廉(おやす)い処へ引越したら可かろうなんて、三吉さんもそう言いますんですけれど、ここの家に在(あ)る道具は皆な、貴方差押(さしおさえ)……娘達を学校へ通わせるたって、あんまり便利の悪い処じゃ困りますし……それに、私共の借財というのが……」
 次第に掻口説(かきくど)くような調子を帯びた。お倉の癖で、枝に枝がさして、終(しまい)には肝心の言おうとすることが対手(あいて)に分らないほど混雑(こんがら)かって来た。
「あれで、森彦も自分の事業の方の話は何事(なんに)もしない男ですが――」とお種はお倉の話を遮(さえぎ)った。「貴方の方に、郷里(くに)に、自分の旅舎(やどや)じゃ……どうしてナカナカ骨が折れる。考えてみると、よく彼(あれ)もやったものです」
「真実(ほんと)に、森彦さんには御気の毒で」
「彼の旅舎へ行ってみますとネ、それはキマリの好いものですよ。酒を飲むじゃなし、煙草を燻(ふか)すじゃなし……よくああ自分が責められたものだと思って、私は何時でも感心して見て来る。何卒(どうか)して彼の思うことも遂げさして遣りたいものですよ」
 身内のものの噂は自然と宗蔵のことに移った。
「宗さんですか」とお倉はさもさも厄介なという風に、「世話してくれてる人がよく来て話します。まあ心(しん)はどれ程御強健(ごじょうぶ)なものか知れませんなんて……こういう中でも、貴方、月々送るものは送らなけりゃ成りません。森彦さんも御大抵じゃ有りませんサ」
「彼は小泉の家に附いた厄介者です。どうしてまたあんな者が出来たものですかサ」
「もう少し病人らしくしていると可いんですけれど、我儘(わがまま)なんですからねえ――森彦さんはああいう気象でしょう、真実(ほんと)に宗蔵のような奴は……獣(けだもの)ででもあろうものなら、踏殺してくれたいなんて……」
 お倉やお種が笑えば、お俊も随(つ)いて笑った。この謔語(じょうだん)は、森彦でなければ言えないからであった。
 やがて別れる時が来た。
「三吉さんの許(ところ)へいらっしゃいましたら、俊や鶴のことを宜敷(よろしく)御願い申しますッて、そう仰って下さい……何卒(どうか)……」
 こう力を入れて頼むお倉の言葉を聞て、お種は小泉の家を出た。
 東京を発(た)つ朝は、お種は豊世やお俊やお鶴などに見送られた。豊世は幾度か汽車の窓の下へ来て、涙ぐんだ眼で姑の方を見た。
by ttkurtt | 2006-03-04 13:25
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